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「鎌倉七口」と呼ばれる7ヶ所の「切通し」
鎌倉は、南を海に面し、北・東・西の三方を山に囲まれた天然の要害の地です。これは、源頼朝が鎌倉を武家政権の本拠地として選んだ、大きな理由のひとつになっています。
しかし、やがて政情が安定して鎌倉が都市として発展するとともに、人や物の往来が盛んになってくると、周囲の山々は交通の妨げとなり、きちんとした道を整備することが必要になりました。
そこで、13世紀前半、執権・北条氏は山の尾根を人工的に開削し、「鎌倉七口」と呼ばれる7ヶ所の「切通し」を整備しました。
極楽寺坂切通し
七口のうち最も海側に位置し、七里ヶ浜、腰越を経て東海道へ通じる道。極楽寺の僧・忍性(にんしょう)が開削したと伝わります。
坂の途中には、成就院があります。
現在の道は深く掘り下げられ、車も通行できる舗装道になっていますが、中世の道はもっと急勾配の峠道で、現在の成就院山門前あたりを通っていたとされます。
大仏坂切通し
梶原・山崎を通じて藤沢方面に通じる道。
切通しへは、大仏坂トンネルの側道の石段を上り、大仏ハイキングコースへの道の分岐路を進むか、「火の見下」バス停から民家の間の細い路地を進む。
この道に関しては、鎌倉七口の他の道に比べて記録が少なく、中世には生活路・間道のような存在だったのかもしれません。国指定史跡。
化粧(けわい)坂切通し
鎌倉往還の「上の道」に通じる道。武蔵(東京・埼玉)・上州(群馬)方面への旅人が通った道です。
名前の由来については様々な説があり、このあたりに化粧した遊女がいたから、戦で討ち取った平家の武将の首を死化粧して、ここで検分したから、「木生え」から転じた、などといわれます。国指定史跡。
亀ヶ谷(かめがやつ)坂切通し
山ノ内(北鎌倉)を経由して、やはり、武蔵・上州方面へ通じる道。
坂が急なので、登ってきた亀が途中でひっくり返ったという「亀返坂(かめかえりざか)」の話も伝わります。 国指定史跡。
巨福呂(こぶくろ)坂切通し
鶴岡八幡宮から山ノ内(北鎌倉)へと抜ける道で、建長寺の先で亀ヶ谷坂の道と合流します。執権・北条泰時が整備したと伝わります。
現在はバスも通行する新道が使われています(写真)。旧道は、道一本南側の鶴岡八幡宮社殿わきから青梅聖天前を抜ける細道ですが、途中で崖に阻まれて先に進むことはできません。国指定史跡。
朝比奈切通し
六浦(横浜市金沢区)の港へと通じる道。北条泰時の命により開かれた道ですが、「三郎の滝」に名前を残す、和田一族の朝比奈三郎が一夜にして切り開いたとの伝説が伝わります。国指定史跡。
名越(なごえ)切通し
三浦半島へと通じる道。執権北条氏にとって三浦半島を根拠とする三浦氏は最大のライバル。鎌倉の防衛上、とても重要な場所でした。
近年の調査で、現在の景観は江戸時代に整備されたものであることがわかりました。 国指定史跡。
基本情報
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