鎌倉紀行ホーム > 大蔵幕府(頼朝屋敷)跡と源頼朝の墓
鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の屋敷跡と墓
大蔵幕府(頼朝屋敷)跡
鶴岡八幡宮の東に隣接して横浜国大付属小中学校の敷地があり、さらにその東に清泉小学校があります。
鎌倉時代のはじめ、現在の清泉小学校の辺りに、頼朝が屋敷(御所)を構えました。当時、頼朝屋敷が幕府の政庁としての役割も兼ね、侍所、公文所(のちの政所)、問注所などがつくられました。
現在、清泉小学校敷地の角には、「大蔵幕府跡」の石碑が立っています。頼朝屋敷の敷地は東西2町半(約270m)、南北2町(約220m)と推定されています。東西南北に門が設けられていたといわれており、現在、東西の門のあった場所には、東御門跡、西御門跡の石碑が建てられています。
頼朝、頼家、実朝の三代で源氏の血が途絶えると、鎌倉幕府の実権は執権の北条氏に移りますが、これとともに幕府の引越しも行われ、大蔵幕府はその役割を終えます。
源頼朝の墓
清泉小学校の北側の小高い丘の上に、「源頼朝の墓」と伝わる石塔があります。
この丘の辺りは、頼朝の持仏堂があった場所。頼朝が亡くなるとこの地に葬られ、持仏堂は法華堂(ほっけどう)と呼ばれるようになります。明治維新を迎えると、神仏分離令により白旗神社に改められました。
現在、丘の上に立つ石塔自体は、江戸時代に清和源氏(頼朝)の末裔であることを自称する鹿児島の島津家の殿様が建てたもので、歴史の古いものではありませんが、この地に頼朝が葬られたことはほぼ間違いなく、敬虔な気持ちでお参りしたいものです。