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鎌倉幕府栄枯盛衰の歴史をたどる

源頼朝が、鎌倉幕府を開くのが建久3(1192)年です。それまで政治の中心は奈良・京都などの西国、政治の実権は公家が握っていました。武家が政治を取仕切るのも、事実上の首都が関東に置かれるのも史上はじめてのことでした。

源氏山公園の源頼朝像

(写真:源氏山公園の源頼朝像。頼朝鎌倉入り800年を記念して、昭和55年に有志により立てられたもの)

以後、元弘3(1333)年に鎌倉幕府が滅亡するまでの約140年間を「鎌倉時代」といいます。

しかし、じつはこの140年の間に、政庁である幕府の建物が置かれた場所は三度変わり、政治の実権も頼朝直系の源氏の血はすぐに途絶えてしまい、将軍を補佐する執権職についた北条氏へと移っていきます。

今回は、鎌倉幕府ゆかりの史跡を訪ねながら、その栄枯盛衰の歴史をたどってみたいと思います。

鎌倉時代初期・頼朝の時代

源頼朝は13歳のとき、源氏の棟梁である父・義朝に従い平治の乱(*注1)に出陣するも、戦に敗れ、義朝は逃亡中に殺害されてしまいます。幼かった頼朝は命だけは助けられましたが、平氏により伊豆の蛭ヶ小島に流罪となります。

その後の平家の全盛時代、頼朝は伊豆の地で20年に及ぶ流人生活を送りますが、やがてチャンスが訪れます。

驕(おご)り高ぶる平家に不満を抱く分子に担ぎ上げられた、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が発した平家追討の令旨(りょうじ)が、伊豆の頼朝にも届き、治承4(1180)年、頼朝は平氏を討つべく挙兵します。

初戦の石橋山の合戦では散々に敗れ、安房(現在の千葉県)まで敗走するものの、千葉氏や三浦氏など東国武士は源氏の正統である頼朝の下に結集し、頼朝は大軍団を率いて、先祖伝来の地であり、また天然の要害の地である鎌倉に入ります。

鎌倉入りした頼朝は、現在の鶴岡八幡宮のすぐ東側、清泉小学校がある辺りに屋敷を構え、都市づくりに着手します。まず、先祖がこの地にまつった八幡宮を材木座(現在の元八幡)から現在地(鶴岡八幡宮)に遷します。

頼朝屋敷跡

(写真:頼朝屋敷跡。「大蔵幕府跡」の石碑が立っている)

鶴岡八幡宮を内裏に見立て都市の中心に据え、京都の朱雀大路にあたる若宮大路を整備し、京都(平安京)をモデルに現在の鎌倉の原型を造ったのは頼朝の仕事です。

十王岩から見た鎌倉の街並み

(写真:「天園ハイキングコース(鎌倉アルプス)」の十王岩から見た鎌倉の街並み)

やがて、平氏を壇ノ浦に滅ぼし、奥州藤原氏を平定すると(奥州合戦)、建久3(1192)年、頼朝は晴れて征夷大将軍に昇り、鎌倉幕府を開きます。

頼朝から長男・頼家、次男・実朝までの源氏三代の時代、約45年の間、頼朝の屋敷のある大蔵の地に置かれた幕府を特に「大蔵幕府」と呼んでいます。

また、頼朝は、奥州平泉の中尊寺などを参考に永福寺(ようふくじ)という大寺院を創建します。

永福寺は、本堂の二階堂・阿弥陀堂・薬師堂を中心に、池や多宝塔、鐘楼も華麗であったと伝えられています。武家の棟梁として、京都に負けない武士の都・鎌倉をつくり、権威を示そうとする意気込みが伝わってきます。

永福寺跡

(写真:永福寺跡は、現在、史跡公園として整備中)

ちなみに、鶴岡八幡宮、永福寺、これに勝長寿院(しょうちょうじゅいん)というお寺をあわせて、「頼朝建立三大寺」といいます。文字通り、頼朝が建立した3つの大きなお寺という意味です。

ここで、あれ?と思う方がいるかもしれませんね。鶴岡八幡宮は神社であって、お寺ではないのではないかと思いませんか?

じつは、昔は神仏習合(しゅうごう)といって、日本古来の神様と仏教の仏様を今ほど明確に分けることなくおまつりしていました。

鶴岡八幡宮

(写真:鶴岡八幡宮)

鶴岡八幡宮も江戸時代までは、「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院で、境内には塔や鐘楼、仏堂などがありましたが、明治の初めの神仏分離令による廃仏毀釈により失われました。

ちなみに、勝長寿院は、平治の乱で亡くなった頼朝の父・義朝の霊を弔うために建立した寺院。大蔵幕府の南に位置したので「南御堂(みなみみどう)」または「南大御堂」などといわれました。鎌倉幕府滅亡後も存続しましたが、室町時代の後半に鎌倉の衰退と期を一にして廃寺になりました。

その頼朝も、正治元(1199)年、53歳で亡くなります。原因は落馬とされていますが、暗殺説もあります。

現在、頼朝の墓と呼ばれる石塔が大蔵幕府跡のすぐ北側の小高い山の上にありますが、石塔自体は、江戸時代に造られたもので、実際の墓ではありません。ただし、文献によれば、生前、頼朝の持仏堂がこの辺りにあり、埋葬された場所もこの付近であることは間違いないようです。

北条得宗政治と鎌倉の発展

頼朝の死後、子の頼家、実朝へと将軍職は引継がれるものの、政治の実権は頼朝の妻で「尼将軍」といわれる政子の親族・北条氏へと移っていきます。

北条氏は、建仁3(1203)年、将軍の後継問題(*注2)をめぐって対立する比企能員(よしかず)を謀殺し、現在、妙本寺が建つ場所にあった比企氏の館を襲撃して一族を滅亡させます。

比企氏の館跡に建つ妙本寺

(写真:比企氏の館跡に建つ妙本寺)

次いで、建暦3(1213)年には、侍所の別当(長官)まで務めた有力御家人である和田一族を滅亡させる(和田合戦)など、頼朝旗上げ以来の有力御家人を次々に排斥していきます。

更には、頼家を将軍職から退位させ殺害し、自ら擁立した三代将軍実朝も、承久元(1219)年、実朝の右大臣拝賀式の日に、頼家の子(実朝からみれば甥の)公暁(くぎょう)をそそのかして暗殺させます。

これにより源氏の血脈は、鎌倉幕府開府後、30年も続かずに途絶えることになります。

公暁による三代将軍・実朝暗殺を幕府衰退の証とし、京都の後鳥羽上皇は、承久3(1221)年、二代執権・北条義時追討の命令を発します。

しかしながら、皮肉にも幕府軍はこの戦いに圧勝し(承久の乱)、かえって幕府支配の体制は安定化し、その後鎌倉はめざましい発展を遂げることになります。

頼朝夫人の政子の父、北条時政を初代とする北条得宗政治は、第三代の泰時の時代に最初の全盛期をむかえます。

宇都宮辻子幕府跡

(写真:宇都宮辻子幕府跡)

嘉禄元(1225)年、幕府を大蔵から宇都宮辻子(うつのみやずし *注3)に移し、更に嘉禎元(1236)年、若宮大路(*注4)に移転します。

この間、砂浜が続く遠浅の海で、大きな船が入れる入江の無かった鎌倉に、我が国初の人工港「和賀江島」を築港し、また、「切通し」を開削するなど都市機能の充実を図っています。さらに、貞永元(1232)年、頼朝以来の慣習法、判例などを元に泰時が編纂した「貞永式目(御成敗式目)」は、後々まで武家法の範とされました。

和賀江島

(写真:「和賀江島」の遺構。鎌倉駅より、小坪経由逗子行バス「飯島」バス停下車。)

五代執権・北条時頼は、反北条の御家人の間に隠然たる影響力を持っていた四代将軍・九条頼経を京都に追放し、更に北条氏の最大のライバル三浦氏を滅ぼして、北条氏による独裁政治の礎をつくりました。

また、この時代の特筆すべきことととして鎌倉新仏教の興隆があります。それまで鎮護国家的な要素が強く、貴族や僧侶など特権階級のものとされていた仏教でしたが、禅宗や念仏宗など新しい教えの誕生とともに、武士や庶民にまで信者の裾野が広がりました。

特に北条氏の帰依を受けた禅宗(臨済宗)が発展し、禅宗の擁護者としても知られる時頼は、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に招き、建長寺を創建しました。

建長寺境内

(写真:建長寺境内。勝上けん展望台より撮影)

混乱と動揺の時代 鎌倉幕府の終焉

その後、八代執権・北条時宗の時代に二度に渡る蒙古襲来を受けます(元寇)。異国警護役や鎮西探題の設置、防塁構築、更には台風と思われる大風にも助けられ、辛くも防衛に成功します。時宗は両軍の死者を弔うため無学祖元を開山に円覚寺を創建します。

元使塚(常立寺境内)

(写真:円覚寺山門)

さらに時代は下り、十四代執権・北条高時の時代。幕府の力の衰えを見て取った後醍醐帝は、高時を討ち、天皇親政を復古させようと図るものの、事前に計画が漏洩し、側近である日野資朝(すけとも)、日野俊基(としもと)らが捕らえられます(正中の変)。

7年後、再び倒幕を図る後醍醐帝でしたが、またも失敗し、天皇ご自身は壱岐に流され、日野俊基は再び捕らえられ、後、葛原ヶ岡で処刑されます(元弘の変)。

日野俊基を祭神とする葛原岡神社

(写真:日野俊基を祭神とする葛原岡神社)

後醍醐帝は壱岐からの脱出に成功し、諸国の武将に倒幕を呼びかけます。これに呼応するように足利尊氏が幕府に反旗を翻し、幕府の京都支配の拠り所である六波羅探題を壊滅します。また、関東では、新田義貞が鎌倉に討ち入りました。

最初、新田軍の主力は化粧坂、極楽寺坂、巨福呂坂を攻めるものの、さすがに難攻不落の天然の要塞・鎌倉は一向に落ちません。

そこで、義貞は自軍を稲村ヶ崎に進め、干潮を待って鎌倉に攻め入ります。市中になだれ込む軍勢を見て敗北を悟った高時は、一族郎党とともに東勝寺に入り、寺に火を放ち、次々に自刃して果てました。

こうして、鎌倉幕府140年の歴史に幕が引かれました。

*注1 平治の乱(1159年)
1156年に起きた保元の乱(皇位をめぐる争いと藤原氏の内紛が結びついて起きた戦乱)で実力を示し、その後台頭した武士の二大勢力である源氏と平氏の棟梁である源義朝と平清盛の争い。平氏が勝利し、乱後、栄華を極めます。

*注2 将軍の後継問題
頼朝夫人政子の父である北条時政と、二代将軍頼家の妾若狭の局(わかさのつぼね)の父である比企能員は、共に将軍家の外戚として勢力を争った。建仁3(1203)年、頼家が病に倒れると後継問題が持ち上がり、若狭の局が生んだ頼家の子一幡(いちまん)を擁する比企氏と、頼家の弟千幡(せんまん・後の三代将軍実朝)を推す北条氏が衝突。

*注3 宇都宮辻子幕府跡
若宮大路と小町大路の間の住宅地の中にお稲荷さんがまつられています。鳥居の脇に宇都宮辻子幕府跡の石碑が建つ。辻子とは大路や小路などの主要道路を結ぶ小道を指します。源氏から北条氏に政治の実権が移ると同時に、幕府の引越しも行われました。
若宮大路側から、雪ノ下カトリック教会の右手の路地を入ってすぐ。

*注4 若宮大路幕府跡
宇都宮辻子幕府跡から若宮大路と平行する路地をしばらく北上すると、「鞍馬天狗」で有名な小説家大仏次郎氏(故人)の邸があります。その塀脇に若宮大路幕府跡の石碑が建つ。宇都宮辻子幕府跡から距離にして200メートル弱。移転というよりも同じ敷地内で、建物を改築したというのが実際か。

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