観月堂
かつて朝鮮半島に君臨した李王朝の「月宮殿」を移築した「観月堂」。
もとは、ソウルの朝鮮王宮にあった建物で、大正13年、当時、この建物を所持していた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長、杉野喜精氏によって、目黒の私邸から高徳院へ移築・寄贈されました。
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一般には「鎌倉大仏」と呼ばれていますが、大仏様のいらっしゃるお寺、高徳院が、鎌倉市の長谷にあるので「長谷の大仏様」と呼ばれることもあります。正式名称は、大異山高徳院清浄泉寺。
意外なことに、数ある鎌倉の仏像の中で「国宝」の指定を受けているのは、この大仏様だけです。鎌倉はたびたび戦火に巻き込まれたため、多くの文化財が焼失してしまいました。
その中で、何度か修復は受けてはいるものの、ほぼ建立当初の姿をとどめている大仏は、文化財として極めて高い価値を有し、「国宝」に指定されています。
大仏の大きさ(高さ)等のデータは、総高(台座を含む)13.35m、仏身高11.312m、螺髪数656個、仏体重量121t。詳細は、高徳院のホームページに記載されています。
有名な大仏様ですが、建立時の明確な資料が残っておらず、謎が多いのも事実。
鎌倉時代の中頃に、僧・浄光(じょうこう)が、民衆の浄財を集めて完成したということや、当初は、木造の大仏と大仏殿が建てられましたが、大風で倒れてしまい、建長4(1252)年、現在の青銅の大仏と大仏殿が再建されたことなどが、わずかに伝わるばかりです。
その後、大仏殿は建武元(1334)年と、応安2(1369)年の二度の大風で倒れ、さらに明応4(1495)年の大地震(※)による津波で大仏殿が破壊されたことが、文献上に記録されています。
以後、大仏殿は再建されることなく、露座の大仏となりました。現在も、大仏の周囲には大仏殿の礎石が残っています。
※『鎌倉大日記』という文献の"明応4年"の記述は、明応7年に南海トラフで発生した大地震の誤記であると解釈されていましたが、最近の研究で、明応4年にも別個に大地震があったことが、ほぼ確認されました。
大仏様は、胎内拝観をすることができます。ぜひ、大仏様の中に入ってみましょう。胎内拝観入口は、大仏像の向かって右横にあります。
胎内に入ると、内壁に格子模様が見られますが、これは、像が大きいので30回以上に分けて鋳造し、そのために「鋳型」を多数並べて、重ねたことを示しています。当時としては、驚くべき高度な技術を駆使して造られているそうです。
昭和35年に行われた修復作業の際に、首回りを内側から強化プラスチックで補強した跡なども見ることができます。
また、2016年1月13日~3月18日まで約2ヶ月かけて、およそ半世紀ぶりとなる大がかりな調査・清掃作業が行われ、新たな発見がありました。詳しくは、下記のリンク先をご覧ください。
かつて朝鮮半島に君臨した李王朝の「月宮殿」を移築した「観月堂」。
もとは、ソウルの朝鮮王宮にあった建物で、大正13年、当時、この建物を所持していた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長、杉野喜精氏によって、目黒の私邸から高徳院へ移築・寄贈されました。
歌集『みだれ髪』などで知られる歌人・与謝野晶子は、明治37年に鎌倉を訪れた折に、
「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼(しゃかむに)は 美男におはす 夏木立かな」という和歌を詠みました。大仏様を「美男」と表現するところなど、いかにも情熱の歌人・晶子らしいですね。
宗派:浄土宗
住所:鎌倉市長谷4-2-28
電話番号:0467-22-0703
拝観料、拝観時間
アクセス:江ノ島電鉄「長谷駅」徒歩7分
地図:江ノ電・長谷駅から
公式ホームページ:鎌倉大仏殿高徳院ホームページ