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鎌倉に伝わる伝説と伝承を訪ねて

歴史の長い鎌倉には、数多くの伝説や伝承が残されています。
今回は、鎌倉のお寺や神社、史跡をめぐりながら、そのような伝説や伝承を通じて、鎌倉幕府が成立する以前から鎌倉幕府滅亡までの鎌倉の歴史をたどってみたいと思います。

鎌倉の地名にまつわる伝承

そもそも「鎌倉」という地名は、いつの時代にどのように成立したのでしょうか。

そのヒントは、鎌倉市街の中心部から金沢街道を2kmほど東に行ったところにある鎌倉五山第五位の浄妙寺にあります。

浄妙寺山門

(写真:浄妙寺山門)

浄妙寺の裏山には、「鎌足(かまたり)稲荷神社」と呼ばれる小さな祠(ほこら)があり、この神社の案内板には、次のように書かれています。

【鎌倉の地名にまつわる伝承(鎌足稲荷の由緒)】
"大織冠(たいしょくかん)藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまより鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。

大化元(645)年、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は、翌大化2(646)年、東国に向かわれ、相模国由井の里に宿泊されました。

その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願をなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納し、祠を営んでお祀りしたのが、当神社の始まりです。"

鎌足稲荷神社

(写真:鎌足稲荷神社)

つまり、大化の改新で活躍し、平安貴族の藤原氏の祖となった藤原鎌足公が鎌を埋納した土地であることから「鎌倉」という地名になったという話です。

とてもロマンのあるお話ですが、この話は南北朝時代の学僧・由阿(ゆあ)が、その著書『詞林采葉抄(しりんさいようしょう)』の中で記述した創作だというのが大方の見解のようです。

鎌足公が現在の茨城県の鹿島出身との説があることから、鹿島神宮へ大願成就のお礼参りに行く途中に立ち寄ったという話を作ったのだと思います。

じつは、鎌倉の地名の由来については、様々な説があり、代表的なものを挙げると、
鎌倉の「かま」は「かまど」のことで、「くら」は谷を表し、南以外の三方を山で囲まれた地形が「かまど」に似ているから
「山を越えていく」という意味のアイヌ語「カマクラン」に字を当てた
「神倉(かみくら)」がなまって、「鎌倉」になった
などがあります。文献も残っていないので、どの説が本当かは分かりません。

山と海に囲まれた鎌倉の地形

(写真:山と海に囲まれた鎌倉の地形)

ちなみに、「鎌倉」という地名が、文献に初めて登場したのは和銅5(712)年成立の『古事記』で、かなり古くから使われていたようです。

鎌倉幕府が成立する以前の伝承

みなさんご存じのとおり、武家の都として鎌倉が整備されたのは、源頼朝が鎌倉入りしてからのこと。

頼朝が幕府を開いたことから、鎌倉は事実上の日本の首都として発展しました。歴史の授業で、「[いい国(1192)つくろう]、または、[いい箱(1185)つくろう]鎌倉幕府」と覚えましたよね?

では、それ以前の奈良時代、平安時代の鎌倉は、どのような様子だったのでしょうか。

近年、鎌倉市役所のそばの今小路西(いまこうじにし)遺跡から木簡が出土し、この場所に奈良時代の律令制下の郡衙(ぐんが・郡の役所)が設置されていたということが分かりました。

また、鎌倉のお寺や神社のほとんどは鎌倉時代以後の創建ですが、いくつかの寺院や神社は、奈良時代や平安時代からの歴史を持ちます。

鎌倉最古の寺、杉本寺

(写真:鎌倉最古の寺、杉本寺)

中でも最も古い歴史をもつ寺院は杉本寺で、奈良時代の天平6(734)年の創建。一方、最も古い神社は長谷の甘縄神明神社で、和銅3(710)年の創建と伝わります。

ちなみに、大きなお寺ではありませんが、長谷と極楽寺の間にある「虚空蔵堂」は、「明鏡山星井寺」という正式名称を持ち、お堂の目の前にある井戸「星の井(星月夜の井)」とともに、かなり古い歴史があるようです。ちょっと、見に出かけてみましょう。

「虚空蔵堂」と「星の井」

(写真:「虚空蔵堂」と「星の井」)

「虚空蔵堂」と「星の井」は、江ノ電の長谷駅よりも少し海よりの交差点から「星の井通り」に入り、極楽寺方面へしばらく歩いて行くと、山にさしかかる手前の右側の路傍にあります。

「虚空蔵堂」と「星の井」にまつわるお話は、以下のようなものです。

【星の井から虚空蔵菩薩が現れた話】
"その昔、行基(ぎょうき)という高僧が全国を行脚中、ここに立ち寄り虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の修行をしていたところ、井戸の底に明星が現れ、七日七晩の間、輝き続けていたという。

この話を都でお聞きになった聖武天皇は、それこそ虚空蔵菩薩の化身であるとし、行基に命じて虚空蔵菩薩像を彫らせ、井戸のそばにまつった。"

ちなみに、この井戸には、名前の由来となった次のような話も伝わっています。

【星の井の話】
"その昔、このあたりは鬱蒼(うっそう)とした茂みに囲まれ昼なお暗かったが、井戸をのぞき込むと昼でも水面に星や月が映っていたので、「星の井」となった。

ところがあるとき、水をくみに来た女性が、誤って井戸に包丁を落とすと、星影も月影も切ってしまい、それ以後は星も月も映らなくなってしまった。"

こうした伝説や伝承を調べているうちに、おぼろげながら昔の鎌倉の様子のイメージがわいてきます。

鎌倉時代の伝承

さて時代は下って平安末期。華やかだった宮廷時代が終わり武士の世の中が始まろうとする時代に、源頼朝(1147~1199)は、武家の総大将、源義朝の三男として生まれました。

13歳の時、父とともに平治の乱(1159年)に出陣するものの、父は討たれ、自らも平家により伊豆蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されてしまいます。その後の平家の全盛時代、頼朝は20年にもおよぶ流人生活を送ります。

源氏山公園の源頼朝像

(写真:源氏山公園の源頼朝像)

そして 治承4(1180)年、打倒平家の機運が高まると、後白河天皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨を受けます。

当初、頼朝は兵を挙げるべきか様子を見るべきか迷っていました。この時、頼朝に出兵の決心をさせたのは、いまも鎌倉にまつられている佐助(さすけ)稲荷の神霊だという伝説があります。

佐助稲荷の朱色の鳥居

(写真:佐助稲荷の朱色の鳥居)

【頼朝の出世物語】
"ある晩、頼朝の夢に神霊と思われる老人が現れ、"わしは隠れ里の稲荷なり。平家討伐の兵を挙げよ。必ず加護しよう"といって消えた。

その言葉を信じて出兵した頼朝は、やがて壇ノ浦で平家を滅ぼし、建久3(1192)年、征夷大将軍に昇進し、鎌倉幕府を開いた。"

後に、頼朝が小さな祠を見つけ、これが夢に出てきた老人の隠れ里かと、お社を建てたのが、現在の佐助稲荷だといわれます。

頼朝は「兵衛佐(ひょうえのすけ)」という官位から「佐殿(すけどの)」と呼ばれていたので、「佐殿」を助けた稲荷ということで「佐助稲荷」となりました。頼朝を大出世させた佐助稲荷、御利益がありそうですね。

佐助稲荷神社境内

(写真:佐助稲荷神社境内)

頼朝は正治元(1199)年に亡くなり、将軍職は二代目の頼家、三代目の実朝に引き継がれますが、実朝が暗殺されると、源氏の嫡流の血は途絶えてしまいます。

その後は、頼朝の奥さんの実家の北条氏が、「執権」と称し、鎌倉幕府の実権を握ります。

この北条氏は、どういうわけか優秀な人が多くて、途中、2度の元寇などの危機に直面するものの、元弘3(正慶2,1333)年に鎌倉幕府が滅ぼされるまで、約130年にわたり政権を維持しました。

歴代の北条執権の中でも、特に名君といわれるのは、「御成敗式目(貞永式目)」を編纂し、鎌倉の都市機能を充実させた三代執権の北条泰時と、敵対勢力を排除し、北条氏による執権政治を磐石なものとした五代執権の北条時頼です。

時頼は、20歳で執権職に就くと、三浦一族などの政敵を次々と排除し、北条氏による専制政治を確立した強面の武将です。

しかし、一方で質素倹約を旨とし、「泣く子と地頭には勝てぬ」といわれたこの時代に、地頭の横暴を制し、民衆のために公平な政治を実現した善政家でもあります。

そのイメージからか、諸国を行脚して民の実情を視察したという、まるで水戸黄門のような廻国伝説がいくつか生まれました。中でも有名なのが、謡曲「鉢の木」の物語です。

鎌倉武士のイメージ 鎌倉もののふ隊

(写真:鎌倉武士のイメージ 鎌倉もののふ隊)

【鉢の木の物語(いざ鎌倉)】
"ある冬の夕暮れ時のこと。旅の僧に身をやつした時頼が下野の国の佐野の庄にさしかかると、あいにくの吹雪になりました。そこで近くの貧しい家に一夜の宿を請うと、家の主人はその僧が時頼であるとは知らずに、粟飯を振る舞いもてなしました。

また、夜になり一段と寒くなってくると、貧しさ故に十分な薪も無いため、秘蔵していた梅、桜、松の鉢の木を惜しげもなく炉にくべて暖をとってくれました。

僧に扮した時頼が主人の素性を尋ねると、もとは佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)という武士で、今は一族に土地を奪われ落ちぶれてはいるが、もし一たび鎌倉に大事が起きれば、「いざ鎌倉」と一番に馳せ参じる覚悟だと語りました。

後年、軍勢を集めた時頼の下に言葉に違わず一番に馳せ参じたのは、常世でした。忠節に感激した時頼は、かつての雪の夜のもてなしにちなんで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝の各荘を領地として与えました。"

この話は、「いざ鎌倉」の話としてあまりにも有名ですので、多くの方がご存じかと思います。

鎌倉時代、幕府(将軍・執権)と、幕府に仕える御家人との間は、土地を媒介とする「ご恩と奉公」の関係で結ばれていました。

すなはち、御家人は幕府から土地の所有を認めてもらうかわりに、一たび鎌倉に異変があったときは、何はさておき駆けつけるというもの。これに当てはめれば、常世は、鎌倉武士の鑑ということになります。

鎌倉幕府滅亡時の話

最後は、元弘3(1333)年、十四代執権・北条高時の時代の話。

高時は先ほどの時頼のひ孫にあたります。ちなみに時頼の息子が有名な北条時宗。元寇(蒙古来襲)のとき、モンゴル軍をむかえ撃った執権です。高時は時宗の孫ということになります。

この時代になると元寇などで力を使い果たし、鎌倉幕府の権力もすっかり衰えていました。ここからは、『太平記』にも書かれている、幕府衰退・滅亡期の物語です。

時の帝・後醍醐天皇は、幕府から政治の実権をとりあげて自ら政治を行おうとしていたので、北条氏を討つべく、二度にわたり倒幕を計画します(正中の変、元弘の変)。

この計画自体は失敗するものの、諸国の武将の倒幕機運を大いに煽(あお)りました。やがて、幕府に不満をいだく多くの武将が倒幕の兵を挙げます。

足利尊氏は幕府の京都の拠点・六波羅探題を壊滅し、それに呼応するように関東では新田義貞が鎌倉に攻め入ります。

群馬県太田市の太田駅前に立つ新田義貞の銅像

(写真:群馬県太田市の太田駅前に立つ新田義貞の銅像)

さて、このとき義貞はどのように鎌倉を攻めたのでしょうか。

鎌倉は南を海に面し、その他の三方を山に囲まれている天然の要害の地です。頼朝は、このように外から攻めにくい土地だったからこそ鎌倉を拠点にしたのでした。外部から鎌倉に侵入するには、いわゆる「鎌倉七口」と呼ばれる切通しの道を行くしかありません。

義貞も、最初はこの七口のうちの化粧(けわい)坂、巨福呂(こぶくろ)坂、極楽寺坂の3ヶ所を攻めますが、幕府軍の必死の抵抗もあり攻め崩すことができません。

化粧坂切通し

(写真:化粧坂切通し)

そこで、義貞は海岸から攻め入ろうと自軍を稲村ヶ崎に進めますが、ここも波打ち際には敵の侵入を防ぐべく逆茂木が並べられ、沖合には幕府の軍船が浮かび、横矢を射かけてきました。
何にも増して、この波打ち際の道は狭く、大軍が押し通れるような状況ではありません。

しかし、このとき奇跡がおきました。有名な義貞の「黄金の太刀」の伝説です。

【義貞の黄金の太刀の伝説】
"義貞は馬を下りると稲村ヶ崎に立ち、兜を脱ぐと、海に向かって龍神に祈った。

仰ぎ願わくば、内海外海の竜神八部、 臣が忠義に鑑みて、潮を万里の外に退けて、道を三軍の陣に開かしめ給え

祈りの言葉を終えると、腰に差していた黄金造りの太刀を海中に投じた。

すると龍神に祈りが通じたのか、その日の夜、二十町余りも潮が引き、幕府の軍船もはるか沖合に流された。これを見た義貞の軍勢は、稲村ヶ崎の干潟を一気に駆け抜け、鎌倉に攻め入った。"

稲村ヶ崎

(写真:稲村ヶ崎)

鎌倉になだれ込む義貞軍を見て敗北を悟った高時は、北条一族の菩提寺であった東勝寺(現在の腹切りやぐら付近)に入り、寺に火を放ち、一族郎党、次々に自刃して果てました。

義貞は干潮の時刻を知っていて、一計を案じ、味方の士気を高めて、一気に攻め込んだのでしょうか。 いずれにせよ、こうして、140年あまり続いた鎌倉幕府は、ついに滅びました。

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