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鎌倉幕府滅亡後の鎌倉の歴史

鎌倉幕府の成立から滅亡までの歴史については、「鎌倉幕府栄枯盛衰の歴史をたどる」に書きました。今回は、鎌倉幕府が滅亡した後、近代に至るまでの鎌倉の歴史を俯瞰(ふかん)し、時代ごとの史跡を訪ねてみたいと思います。

南北朝時代から室町時代にかけての鎌倉

新田義貞の鎌倉攻めでは激戦が繰り広げられ、民間人も含め多くの人が亡くなりました。材木座辺りでは、今でも工事をすると人骨が出てくるとききます。

材木座に九品(くほん)寺というお寺がありますが、このお寺は鎌倉攻めの際に亡くなった人々の霊を弔うために義貞が創建したお寺です。

九品寺本堂

(写真:九品寺本堂)

九品とは極楽往生を願う人の生前の行いによって定められた九種類の往生のありさま(上品・中品・下品のなかにそれぞれ上生・中生・下生がある)のことをいいます。

九品寺山門と本堂に掲げられた扁額

(写真:九品寺山門と本堂に掲げられた扁額の文字は義貞の筆を写したものと伝わります)

さて、鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇が建武の新政(建武の中興)をはじめます。

この建武の新政というのは、平安時代の醍醐天皇・村上天皇の時代の政治、すなわち天皇が自ら政治を行う天皇親政を理想とするもので、幕府打倒に活躍した武士に対して恩賞が薄かったのです。

例えば、足利尊氏が望んだ征夷大将軍の職は、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王に与えてしまいました。そういうわけで武士の間に新政に対する不満が高まり、やがて朝廷(後醍醐天皇)と武士の棟梁・尊氏は対立していくことになります。

この頃の鎌倉における重要な事件として「中先代の乱(*1)」があります。

鎌倉幕府滅亡時の執権・北条高時の次男である北条時行(ときゆき。この当時10歳前後)は、鎌倉幕府滅亡時の兵火を逃れ、信濃国に潜伏していました。

建武2(1335)年、この北条時行を担いだ勢力が北条氏再興を期して鎌倉に攻め入り、鎌倉を守っていた尊氏の弟・直義を鎌倉から追い落とすという事件が発生しました。

この乱は東下した尊氏によってすぐに鎮圧され、北条時行の政権はわずか20数日しか続かなかったのですが、この時、捕虜として東光寺(現在の鎌倉宮の地)に幽閉されていた護良親王を、時行の軍勢に追われて鎌倉を脱出する際、直義が部下に命じて殺してしまいます。

鎌倉宮

(写真:鎌倉宮)

護良親王は武勇の誉れ高く、はじめは父である後醍醐帝を支えて活躍しましたが、後、帝と離反し、足利尊氏とも対立し、東光寺に幽閉されていたのです。鎌倉宮(大塔宮)境内の一角には、現在も護良親王が幽閉されたという土牢が残っています。

その後、後醍醐帝は、尊氏を討つため新田義貞を派遣しますが、最終的に尊氏が勝利し、京都に室町幕府を開きます(*2)。

足利尊氏が室町幕府を開くと、鎌倉には東国を統治するための出先機関として鎌倉府が置かれ、その長を鎌倉公方(くぼう)とよびました。将軍のことを公方と呼んだので、鎌倉の出先機関の長をこのように呼んだのですね。

鎌倉公方には、関東武士に対する知行権と裁判権が幕府から付与されました。鎌倉公方には京都の将軍家と血縁関係にある足利氏が就き、その執事である上杉氏を関東管領(かんれい)とよびました。

なお、鎌倉府(鎌倉公方の御所)は現在浄妙寺のある浄明寺地区にあったようです(寺名と地区名で漢字が異なります)。鎌倉時代に比べて政治の中心地が随分東に移ったわけです。

鎌倉公方は、足利尊氏の第2子基氏(もとうじ)に始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と、100年余り続きましたが、初代の基氏を除けば、ことごとく京都の将軍家と対立し、数度にわたり管領上杉氏が反乱を起こしました。

その中で特筆すべきは応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」でしょう。上杉禅秀(氏憲)は、関東管領として足利持氏に仕えていましたが、持氏の乱れた政治に対して反旗を翻し、一時、持氏は鎌倉を追われます。しかし、結局、禅秀は敗れて自刃しました。

下の写真は、杉本寺前に架かる犬懸橋を渡った先にある上杉朝宗邸址を示す石碑

上杉朝宗邸址を示す石碑

(写真:上杉朝宗邸址を示す石碑)

碑文には、「朝宗は足利氏満、満兼に仕えた関東管領で、その子氏憲(禅秀)は跡を継いで足利持氏の執事となったが、持氏と不和になり兵を起こすが、敗れて鶴岡別当坊で自殺した」とあります。

「上杉禅秀の乱」は、なんとか持ちこたえた持氏でしたが、その後、京都の室町幕府六代将軍・義教(よしのり)と対立し、幕府の後押しを受けた管領の上杉憲実(のりざね)によって攻められ、自害します(永享の乱 1439)。

持氏の後を継いだ成氏も、享徳4(1455)年、ついに将軍の勘気を蒙って成氏追討の命が下され、鎌倉を脱出して古河(現・茨城県古河市)に走ります(以後、古河公方と称した)。

その後に進入した今川範忠の成氏追討軍によって鎌倉は完膚なきまでに破壊されてしまい、これ以降、鎌倉は寒村となり、以後、二度と政治の中心地となることはありませんでした。

大町の別願寺の足利持氏の供養塔

(写真:大町の別願寺の足利持氏の供養塔。別願寺は、室町時代に鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた)

戦国時代の鎌倉

ただ単に歴史の偶然なのでしょうか。三浦氏と北条氏にまつわる不思議なお話です。

鎌倉時代、鎌倉幕府創設にあたって尽力した三浦氏は相模で最大の勢力を形成しますが、後に執権・北条氏と対立して滅亡します。三浦氏滅亡後、一族の佐原氏によって三浦氏の名跡が再興されます。

時は下って戦国時代の初め、三浦道寸は長子・義意(よしおき)を相模三浦半島の新井城主(現・三浦市)とし、自らは岡崎城主(現・平塚市)として領国の拡大を図ります。

一方、小田原城を奪った北条早雲は、相模の統一を目指し、岡崎城主の道寸を追放。敗れた道寸は、鎌倉・逗子の市境にある山城・住吉城にこもって抗戦しますが、奮戦むなしく破れ、新井城へ逃れました。

永正13(1516)年、北条早雲は新井城を急襲。道寸は万策尽き、自刃します。こうして、またしても三浦氏は北条氏に滅ぼされるのです。

住吉城址に立ち、目を閉じて耳を澄ますと、沖に浮かぶ軍船が見え、武者の鬨の声が聞こえるようです。

住吉城址に建つ住吉神社から眺めた海

(写真:住吉城址に建つ住吉神社から眺めた海。写真下に見えるのは正覚寺の屋根)

ちなみに、北条早雲に始まる北条氏は、鎌倉時代の執権北条氏と区別して小田原北条氏又は後北条氏などといいます。早雲自身は、存命中伊勢新九郎(伊勢盛時)を名乗っており、北条姓は名乗っておらず、鎌倉時代の執権の北条家とは血縁上の関係はありません。

北条早雲の子・氏綱の時代になると、早雲が築いた玉縄城(現在の大船の清泉女学院の敷地内)を中心に、神社仏閣も再建され、今川範忠によって破壊された鎌倉もだいぶ復興されてきました。

こうして三浦半島が北条氏の版図に入ると、浦賀水道を隔てて対岸の房総半島に勢力を張る里見氏は脅威を感じずにはいられません。

里見実堯(さねたか)は、大永5(1525)年、大永6年の二度にわたり、水軍を率いて三浦半島に攻め寄せます。

この時、鎌倉まで侵攻した里見軍によって鶴岡八幡宮は炎上。その後、里見軍は玉縄城に向かいました。しかし、玉縄城を守る氏綱の弟・氏時は、配下の甘粕氏・福原氏とともに城と鎌倉の間の戸部川(柏尾川)で北上する里見軍を迎え撃ち、これを撃退しました。

こうして、北条氏が玉縄・鎌倉から三浦半島一帯を防衛し、1590年(天正18年)の小田原城攻めにより北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされるまで、鎌倉は北条氏の支配を受けることになります。

玉縄首塚

(写真:玉縄首塚)

玉縄首塚は、戸部川での合戦の後、敵・味方の首級を交換し、北条方の将の首を葬り、塚を築いて弔ったものであるとされます。別名「甘糟塚」。8月19日には、首塚を供養する「玉縄首塚まつり」が開催されます。

江戸時代以後の鎌倉

江戸時代に入ると鎌倉は幕府の天領(直轄地)とされました。

やがて、江戸中期以降は、江ノ島や金沢八景とともに物見湯山の地として知られるようになり、観光客が来訪するようになります。「鎌倉十橋」や「鎌倉十井」などの、いわゆる「鎌倉の名数」は、今でいう観光促進キャンペーンのために、この頃に作られました。

「鎌倉十橋」のひとつ「歌の橋」

(写真:「鎌倉十橋」のひとつ「歌の橋」)

「鎌倉十井」のひとつ、明月院境内の「瓶の井」

(写真:「鎌倉十井」のひとつ、明月院境内の「瓶の井」)

明治時代に入ると、横須賀線開通(明治22年)と江ノ電開通(明治43年)を契機に、鎌倉は美しい海岸のある風光明媚な別荘地、保養地として発展していきます。

大正から、昭和の初めの頃に建てられた洋館は今なお残り、鎌倉の街に異国情緒を添えています。代表的なものは、以下のとおりです。

旧前田侯爵別邸(現・鎌倉文学館)

旧前田侯爵別邸。現・鎌倉文学館

(写真:旧前田侯爵別邸。現・鎌倉文学館)

旧前田侯爵別邸は、加賀前田家の別邸として建てられました。ハーフティンバーを基調とする洋館でありながら、切妻屋根など和風の要素も取り入れられた独特の外観。

現在は、「鎌倉文学館」として活用され、夏目漱石、芥川龍之介、川端康成、大佛次郎、里見弴(とん)、与謝野晶子、高浜虚子、小林秀雄をはじめ300人以上の鎌倉ゆかりの小説家、歌人、俳人、評論家などの著書や、原稿、愛用品などを収集保存し、展示しています。

旧華頂宮邸

旧華頂宮邸

(写真:旧華頂宮邸)

報国寺の左わきの道を奥に進んだ谷に建つ旧華頂宮邸。昭和4年、華頂博信(ひろのぶ)侯爵邸として建設。

古我邸

古我邸

(写真:古我邸)

1916(大正5)年に、三菱銀行重役であった荘清次郎の別邸として建てられました。その後、浜口雄幸(おさち)、近衛文麿の両首相が別邸として使い、戦後は、進駐軍に接収された歴史もあります。

古我邸という名称は、レーシングドライバーの、故・バロン古我(古我信生)氏が、2005年に亡くなるまで永く住まわれたことに由来。現在は、フレンチレストランになっています。

ホテル ニューカマクラ

ホテル ニューカマクラ

(写真:ホテル ニューカマクラ)

大正12年8月。当時、すでに文壇の花形であった芥川龍之介と岡本太郎の母で歌人・小説家の岡本かの子が、鎌倉の旅館・平野屋で偶然出会う。かの子は、後にこのときの体験をもとに小説『鶴は病みき』を執筆しました。

平野屋の場所には現在、ホテル・ニューカマクラがあります。鎌倉駅西口。

吉屋信子記念館

吉屋信子記念館

(写真:吉屋信子記念館)

小説家・吉屋信子は都会の喧騒を逃れて、昭和37年にこの地に新居を建て、没年まで居住しました。晩年を飾る歴史小説『徳川の夫人たち』『女人平家』はここで執筆されました。

現在、記念館となっており、決められた公開日のみ公開されています。

*注1 中先代の乱
先代=北条政権(鎌倉幕府)、後代=足利政権(室町幕府)の中間の政権の意。

*注2 尊氏と義貞の覇権争い
天皇方と離反した足利氏に対して、新田義貞が尊氏討伐に出陣するが、箱根で敗れて西走。尊氏はこれを追って上洛するが、奥州の国司・北畠顕家に敗れて九州に逃れる。
しかし、間もなく九州で勢力を盛り返した尊氏は、兵庫の湊川で迎撃する楠正成と新田義貞の連合軍を撃破。後醍醐天皇は奈良・吉野山に潜行(南朝)。一方、京都に入った尊氏が光明院を擁立(北朝)したことで朝廷が分裂し、南北朝の動乱となる。
義貞は北陸に逃れるが戦死。尊氏は京都に室町幕府を開く。

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