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義経と静の物語

悲劇の武将・源義経と義経の愛妾・静御前(しずかごぜん)の劇的な悲恋物語はよく知られています。

今回は、義経と静の足跡をたどって、京都、鎌倉、そして奥州平泉を取材し、二人の生涯を絵巻物風にまとめてみました。なお、取材地の情報は文末にまとめてありますので参考にしてください。

平泉の義経居館跡とされる「高館」の義経木像

(写真:平泉の義経居館跡とされる「高館」にまつられている義経木像)

それでは、ごゆっくりお楽しみください!

少年時代の義経

源義経は、武家の棟梁・源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸といいました。兄には後に鎌倉幕府を開く頼朝がいます。

平治の乱(1159年)で源氏は平家に敗れました。父・義朝は死に、兄・頼朝は平家によって伊豆に流されました。

幼かった義経は、当代一の美女といわれた母の常盤(ときわ)が藤原長成(ふじわらながなり)という貴族と再婚したことから、長成に引き取られた後、京都北部の鞍馬寺に稚児として預けられ、16歳まで過ごします。

京都・鞍馬寺仁王門

(写真:京都・鞍馬寺仁王門)

やがて成長した義経は、自分が源氏の血を継ぐ者であることを知り、父の仇である平家を滅ぼすことを心に誓うのでした。

しかし、寺院にいるということはやがて出家して僧侶になることを意味し、このままでは、平家打倒は夢に終わってしまいます。

鞍馬山の木の根道

(写真:鞍馬山奥の院へ向かう途中の「木の根道」)

義経が鞍馬寺を抜け出すきっかけを作ったのは、奥州平泉から来た金売り吉次という商人でした。当時、奥州では莫大な黄金が産出され、これを吉次が都に運び、都を支配していた平家がこの黄金を使って中国と貿易を行っていたのです。

この金売り吉次というのはただの商人ではなく、奥州の金山を支配する大商人で、隊商を組んで毎年、奥州と都を行き来しているのでした。

秋の鞍馬で行われる「鞍馬の火祭」

(写真:秋の鞍馬で行われる「鞍馬の火祭」)

源氏の棟梁の血を引く義経を政治的に利用しようとする吉次の思惑と、平家の支配する都を脱出して平家を滅ぼす機会を窺いたいという義経の利害が一致し、義経は吉次一行に従い奥州平泉へ向かうことになりました。

中尊寺金色堂

(写真:平泉の中尊寺金色堂)

ちなみに義経の家来として終生行動を共にした武蔵坊弁慶と京都の五条大橋で出会ったのは、奥州に旅立つ直前のことだったようです。義経と出会う前の弁慶は、比叡山の有名な荒法師でした。

現在、五条大橋のたもとに薙刀をふるう弁慶と、それを身軽にかわす義経のかわいらしい彫像があります。当時の五条大橋は、現在の松原橋のあたりに架かっていました。

京都・五条大橋の義経と弁慶像

(写真:京都・五条大橋の義経と弁慶像)

白河の関を越えてやってきた義経は、平泉の繁栄に目を見張りました。

奥州の大地が生み出す黄金と良馬(当時、馬は貴重品)が平泉に富と繁栄をもたらし、平泉の支配者である藤原氏は、朝廷から陸奥守の官位を受けていましたが、実際には白河関以北は中央権力の及ばない王国のようになっていました。

奥州藤原氏は、初代の清衡(きよひら)、二代目・基衡(もとひら)、三代目・秀衡(ひでひら)に、秀衡の子で頼朝に滅ぼされた泰衡(やすひら)を入れ、頭文字をとってキ・モ・ヒ・ヤスと覚えます。

義経が平泉にやってきたのは、秀衡の時代。秀衡は、義経を肉親のように温かく迎えます。

岩手県奥州市の「えさし藤原の郷」に復元された当時の平泉の様子

(写真:岩手県奥州市の「えさし藤原の郷」に復元された当時の平泉の様子)

義経の活躍と栄光

北の都・平泉で伸びやかに過ごす義経に転機が訪れます。兄・頼朝の旗揚げの知らせが平泉にも届いたのです。後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が発した平家追討の令旨を受けた頼朝が、治承4(1180)年、平氏を討つべく伊豆で挙兵したのでした。

奥州の大地。中尊寺境内より

(写真:奥州の大地。中尊寺境内より)

一目散に兄の下へ馳せ参じようとする義経を秀衡はなんとか引きとめようとしましたが、ついに義経はわずかな郎党を引き連れて平泉を後にします。義経22歳のときのことです。

義経が、頼朝の下に参陣したのは、富士川の戦(平家が水鳥の羽音を源氏の夜討ちと間違えて敗走した戦)のときのことでした。頼朝は、初めて会う弟を涙を流して迎えたといいます。

その後の義経の活躍は、「平家物語」などでご存知の通りです。

兄・頼朝のライバルで、平家を都から追い出し、いち早く都に進軍したものの、市中で乱暴狼藉を働いて評判の悪かった源(木曽)義仲軍を宇治川の戦で撃破して都入りを果たします。

一方、義仲軍に倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗れるなどして力を失い、都落ちした平家は、しばらく西国を流浪していましたが、義経が都入りした頃には四国の屋島を本拠とし、次第に勢力を盛り返しつつありました。

そこで、後白河法皇より平家追討の院宣を受けた義経は即座に行動を開始し、一ノ谷の合戦では山道を越えて敵の背後の崖上から攻め込むという奇襲戦法で勝利し、続いて屋島の戦、壇ノ浦の海戦と連戦連勝し、ついに平家を滅ぼします。義経は、まさに軍事の天才で、それまでの常識にとらわれない戦法で、平家との戦いで連戦連勝したのです。

義経と弁慶。鎌倉・満福寺

(写真:義経と弁慶。鎌倉・満福寺)

平家との戦を終え、都に凱旋した義経は都人から熱狂的な歓迎を受けました。劇的な勝利で平家を滅ぼした英雄は、それまで平家の圧政に苦しんでいた人々から今でいえば大スターのような感じで受け入れられたのでしょう。

義経が白拍子・静と出会ったのはこの頃でした。白拍子とは、烏帽子をかぶり白の水干に緋の袴という男装で舞う妓女のことで、静はその際立った美貌と絶妙な舞で当代一の白拍子と評されていました。義経と静はやがて恋に落ちるのでした。

義経の転落-兄との決別-

このように、まさに栄光の直中にいた義経ですが、都での評判が高まるのに反して、兄頼朝とは不和が次第に深まりつつありました。

というのも、頼朝が築きつつある鎌倉政権というのは北条氏や三浦氏など関東武士の寄合所帯で、頼朝自身はその上に乗っかっている神輿にすぎません。したがって、いつも周囲の顔色を窺いながら政権運営をしなければならなりませんでした。

しかし、義経はそのような兄の苦心を知らず、鎌倉の意向を無視して勝手に朝廷から官位を受けたり、かつて平家の全盛時代に「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した平大納言時忠の娘を娶ったりと自己中心的な行動が目立ちました。

義経は、せっかく頼朝が作り上げた鎌倉武士団の結束を壊しかねない存在になりつつあったのです。

義経は、戦には天才的でも政治的感覚は無感覚に等しく、まさか自分が兄に邪魔者扱いされはじめているとは露ほども思わず、兄に再会した暁には大いに褒められるだろうと思いながら、捕虜を連れて意気揚々と鎌倉に帰ってきました。

結局、鎌倉の近くまでやってきた義経は、鎌倉府内には一歩も入ることを許されず、鎌倉の手前の腰越(こしごえ)の満福寺で留め置かれました。このときに義経が兄・頼朝に書いた書状が有名な「腰越状」です。

満福寺の「腰越状をしたためる義経」を描いたふすま絵

(写真:「腰越状をしたためる義経」の場面を描いたふすま絵。鎌倉・満福寺)

讒訴(ざんそ)に惑わされること無く、私を信じて欲しいと必死に訴えたものの、二週間待っても返事がないことを知ると、ようやく義経にも頼朝の腹が分かってきました。

「鎌倉に不満のあるものはわれに従え!」といい、憤然と京に引き返したのでした。

静との別れ

鎌倉ではついに義経追討の議が決せられます。

京都にいた義経は、鎌倉方が仕向けた土佐坊昌俊ら暗殺隊に居館である堀川の館を夜討されましたが、静の機転により危うく死地を脱します。

暗殺が失敗し、今度は頼朝自身が率いる義経追討軍が鎌倉を進発したことを知ると、西国に落ちるべく、義経は京を立ちます。

義経一行は、船で九州に逃れるつもりでした。しかし、嵐で船が座礁するなどして九州に落ちのびる計画を断念せざるを得なくなり、しかたなく奈良の吉野山から山岳地帯に入り潜伏することになりました。

この時、義経は静をどこまでも連れて行くつもりでしたが、雪深い山道を行くことは、義経の子を身篭っていた静には無理でした。静は雪深い吉野山で義経と泣く泣く別れます。

満福寺の「義経と静との別れ」の場面を描いたふすま絵

(写真:「義経と静との別れ」の場面を描いたふすま絵。鎌倉・満福寺)

静 :どうしてもお供はかないませぬか。

義経:わしを苦しめてくれるな。

雪のちらつく山道を共の者とともに頼りなげに下りて行く後姿が、義経が静を見た最後でした。

やがて鎌倉方に捕われ、鎌倉へ送られてきた静は、頼朝夫人・政子の願いで八幡宮の神前に舞を奉納することとなります。文治2 (1186) 年4月8日のことでした。静は頼朝が期待していた関東の繁栄を寿ぐ祝儀舞に反して義経との別れの曲を舞うのでした。

   吉野山 峰の白雪踏みわけて

   入りにし人のあとぞ恋しき

   静や静、しずのおだ巻きくり返し

   昔を今に、なすよしもがな

春の鎌倉まつりで奉納される「静の舞」

(写真:春の鎌倉まつりで奉納される「静の舞」。写真提供:鎌倉市観光協会)

怒りに震える頼朝に政子は、「夫を慕う本心を形にして幽玄である」と訴えたのでした。『吾妻鏡』は頼朝が卯の花襲の衣を褒美にそっと差出したことを記しています。

義経と静の死

静と別れた後、義経一行はどのような経路をとったかは定かではありませんが、懐かしい奥州平泉に落ち延びます。この時も秀衡は義経らを帰ってきた我が子のように迎えました。

しかし、文治3(1187)年10月29日、秀衡が亡くなると次第に状況が変ってきます。

鎌倉から弾圧の使者が訪れるに及び、秀衡の子・泰衡は、「義経を守れ」との秀衡の遺命に背き、ついに義経を殺すことを決意したのでした。

文治5年4月29日、泰衡は衣川の館の義経を襲いました。兄と仲違いし、父とも仰ぐ秀衡も死んだ今となっては何も思い残すことは無いとして、義経は自害します。享年31歳でした。

この時、弁慶は義経を守るべく最後まで奮戦。全身に矢が刺さり、ハリネズミのようになりながら館の前を守っていた弁慶も、主君の死を見届けるとついに息絶えました。

満福寺の「弁慶立往生」の場面を描いたふすま絵

(写真:「弁慶立往生」の場面を描いたふすま絵。鎌倉・満福寺)

義経の館のあった高館からの眺望

(写真:義経の館のあった高館は、平泉で景観随一といわれ、眼下に北上川の流れ、川向こうに束稲山を見ることができます。)

義経の死の約500年後に平泉を訪れた松尾芭蕉は高館に立ち、次の句を詠みました。

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

義経の館のあった高館からの眺望

(写真:松尾芭蕉像。中尊寺)

その後、静は義経の子を出産しました。生まれてくる子が女児なら命は助けるが、男児なら、成長して父の仇討ちをするともかぎらないから殺すという約束でした。

生まれてきたのは男児で、生後まもなく静の手から取り上げられ、由比ヶ浜に埋められたとも、海に投げ入れられたともいわれます。

子を取り上げられる静御前。鎌倉・満福寺

(写真:子を取り上げられる静御前の場面を描いたふすま絵。鎌倉・満福寺)

悲嘆に暮れる静は、生まれ故郷の丹後に帰り亡くなったとも、奥州の義経を頼って旅する途上で義経の死を知り、後を追うように病死したともいわれます。

埼玉県久喜市栗橋地区にある静御前の墓

(写真:埼玉県久喜市栗橋地区にある静御前の墓)

●平泉町
かつて奥州藤原氏が政治を行った中心地で、中尊寺・毛越寺などの寺院や、義経の居館跡(高館)などの史跡がある。2011年6月、世界遺産登録。
交 通:JR東北本線平泉駅下車(東北新幹線一ノ関駅乗換え2駅目)。

●えさし 藤原の郷(岩手県奥州市)
秀衡の居館であった伽羅御所(きゃらのごしょ)や平泉の政庁をはじめ、数々の平安時代の建物を忠実に再現したスケールの大きなテーマパークで、NHK大河ドラマ「炎立つ」や映画「陰陽師Ⅱ」の撮影にも使用された。また、平成17年の大河ドラマ「義経」のメインロケ地にもなった。
交 通:JR東北本線水沢駅下車。バス又はタクシー。
車の場合は、東北自動車道水沢I.Cから約15分。
時 間:9~16時
料 金:800円
えさし 藤原の郷ホームページ

●満福寺(神奈川県鎌倉市)
鎌倉市腰越の満福寺は、頼朝の怒りに触れて鎌倉入りできなかった義経が逗留し、腰越状をしたためた寺。本堂のふすま絵は、鎌倉彫の技法を取り入れた漆画で、義経の歩んだ人生が描かれている。
交 通:江ノ電腰越駅下車。徒歩5分。
時 間:9~17時
料 金:200円
満福寺ホームページ

●鞍馬寺(京都市左京区)
義経が幼少期を過ごした寺。
交 通:叡山電車鞍馬線「鞍馬駅」下車。本殿までは徒歩30分。
時 間:9~16時30分
料 金:200円
鞍馬寺ホームページ

●五条大橋(京都市下京区)
義経、弁慶主従出会いの場所。
交 通:京阪電車「五条駅」下車。すぐ。

●静御前の墓(埼玉県久喜市栗橋地区)
静御前の墓と伝わる墓石のほか、義経招魂碑などがある。静御前の墓は、栗橋の他、全国数カ所にあり、いずれが本物かは特定できません。
交 通:JR線・東武線「栗橋駅」下車。徒歩5分。
久喜市観光協会

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